2011年12月16日金曜日

PERSON OF THE YEAR

はいはい、オネムなウィンターモーニングよろしくベリーマッチ、カチュです。

今ぶち眠いんで眠気覚まし(むしろ誘発するか、笑)にネットぷらぷらしてたんすけど。

最近あんまりチェックしてなかったので、なんとなく「イルコモンズのふた。」を眺めていてこの記事発見。
TIME誌は毎年「person of the year(今年の人物)」を選んでるわけだけども、なんと今年は「the protester(プロテスター、抗議する人)」が表紙を飾っちゃってた!



これは僕の勝手な主観だから聞き流してくれればいいけど、今まで「抗議する」ということ自体にネガティブなイメージがつきまとってたって思うんだよね。みんなが守るべきルールに順応できない人みたいなさ。「上」が決めたことなんだからしゃーないじゃんか、その恩恵でおれらも生きてるんやで、ガヤガヤすんなやみたいな。そんな感じ。僕たち私たちのための「はず」ということで、分け分かんないルールやら古臭い決まりやら暗黙の了承やらを生んできて放置してきたと思うわけ。波風立て生きたくたくねーんだよおらーよぉ、ならそれでいいというか、そう人もいるんだけど、なんだかあまりにも多くの人がその中に吸い寄せられちゃって、その粘っこい生ぬるい空気から抜け出せないみたいな雰囲気を感じてた。それがさ、本当は声を大にして響き渡らせるべき訴え、を静かに絞め殺してきたと思う。そういうのが少しずつ、日本では超少しずつだけど変わってきてる。その「超少しずつ感」をどうしても諸外国とかと比べたくなって苛立ったりすることもあるんだけど、最近はそんなもんかもなと思ったりもしてる。もちろん、原発とか、ああいう事態になったにも関わらず、とりあえず一生じゃなくていいから、日本中の全原発を一旦停止させるぐらいのことが出来ない、決断力のない、当事者感がない、そんな雰囲気全体に相当腹は立つわけだけども。でも、色んな人の中で色んな葛藤が巻き起こってると思う。2011年この国に住む人々は、この世は種々雑多な人間がいて、この何気なく生きてきた社会というのは、様々な意見や意思のひしめき合いの上で成り立っていて、自分もその大きな渦の中にいる、責任があるということを再認識、あるいは初めて認識しはじめたんじゃないかなと思う。それは日本に住む人にとって大きな前進だと思う。そして、この「遅れ」感は案外、興味深い独自性を生み出し、新しい方向に向かう可能性もあるんじゃないかなとそんなことを想像してみたりして、日々の焦りを抑えているわけですが。

僕自身、この意識せざるをえない社会の流れを、どう自分という存在、人生の流れ、僕の世界観なんかと結びつけて、どう自分なりの意思表明というか生存表明に結びつけていけばいいかグニャグニャしてる。もちろんその最終的に行き着く先はバグパイプを媒体とした音楽的提示に他ならないわけだけども。兎にも角にも、その都度やることはやらないと、その先は見えてきすらしない。悶々しながら日々練習。そして、その都度言うこと言わないと、その先は見えてきすらしない。明日は渋谷での「Twitter発脱原発デモ第7弾」にドラム持ってて参加する。

一人一人が変える力を持ってる。みんな持ってる。悪い方向にもいい方向にも変えられる。だけど、一人じゃ変えられない。だけど一人が変える努力をしないと、なにも始まらない。別に大きな努力じゃなくていい。小さくていい。集めればいい。